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色彩が教える人間の本質

色彩について研究し、臨床経験の中で気づいたことは、究極のところ人が選ぶ色とは、それが何色であっても、その人が持つ愛や善を表しているということだ。

例えば、ある人が塗り絵でスカートを緑に塗ったり、また別の人が赤いグラスを買ったり、さらに別の人が黄色い花畑に目を奪われたりしたとする。

緑を選んだらこういう心理、赤を選べばこんな心境、黄色に惹かれたらこんな状態と、いくらでも解釈ができ、しかもポジティブにもネガティブにも読み取れるのだが、選んだ色の背後には常に愛があり善がある。色の違いは愛の表現の仕方の個性に過ぎない。

性善説か性悪説か、迷うことは無い。もちろん全ての人の言葉や行動には善も悪もあるが、本質はもともと善であり、素直に表現すれば愛となると思う。

これは一万人を超える臨床の結果、自ずと実感され確信に至った考えだ。

当初は、人がどんな色を選ぶか、選んだ色がその人のどんな質を表しているのか、知的、分析的に見てはそれを解釈をしていた。頭で分かろうとしていた。ところが何千件もそれをやっているうちに心で感じ取るようになり、いつの間にか分析や解釈するような態度から離れていた。さらに臨床経験が積み重なるうちに、直感的に「わかる」ような体験をするようになった。その中でいつも思うのは、どんな個性があり、どんな経験を経ていても、人は善なる存在であるということだ。そんな風に受け止めるようになったのは、心理カウンセリングだけに限ったことではない。医療や福祉、教育の場でも、日常生活でもそうだ。

今、見かけ上、善に振る舞っていても、見かけ上、悪の限りを尽くしていても、その奥の、人間の本質的で基本的な在り方は善だ。現状が健康でも病気でも、心身の本質は健康であるのに似ている。

自分自身が、あるいは目前の人が、ポジティブに振る舞おうとネガティブに振る舞おうと、見かけに振り回されてはいけない。

自分も人も本来善であること、愛に生きることができるということ、それを信頼することができれば、一瞬で世界が違って見えて来るはずだ。多くの人がこのアイデアを共有できれば、それだけでも世界は平和への道を歩む大きな推進力を得られると思う。

その試みは既に古代、日本において実行され、今なおその枠組みは日本の国柄として生きているように思う。

「和をもって貴(とうと)しとなす」

聖徳太子が、かつて多民族世界であった日本をまとめた「和」の精神には、人間の善性や愛への圧倒的な信頼があったからではないかと思う。それは聖徳太子自身の信仰生活と学びの蓄積から来る、深い人間理解によるものだと思う。

色は、多様な人間の存在と、多様な個性を表すと同時に、人間の本質は善であり、どのような個性を持っていても、素直に自分の素質を表現すれば愛になるということを教えてくれていると思う。

自分を知るということ、自己理解を深めることで、人はどうすれば己の個性を活かして愛を表現できるかわかる。自己理解は同時に他者への理解も促す。総じて人間理解を深めることが人を愛の表現者へと育てて行く。

人間理解には学びがどうしても必要だ。例えば、特に小説などは必修だ。

小説は、人間を善と悪に分けずに等しく登場させる。様々な色彩を持つ人物が、喜び、怒り、嘆き、微笑む。善人が悪の道へ転落し、悪人が改心して生まれ変わる。そういったありのままの人間のドラマを読書体験することで、わたしたちは人間理解を深め、己の善性に近づいて行く。

小説は、自分が持っている色を、どのように自分の人生のカンバスに描くかを導いてくれる、師なのだ。

 

平史樹

 

 

 

 

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