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親子関係は唯一無二?

親を失って、あるいは子を失って、世界が終わったように病んでしまう人を何人も見た。そんな人を救う方法はないのか探している。

わたしたちにとって親子の関係は、世界を支える柱のようだ。それを依存と言ってネガティブに捉える人もあるが、親子の特別に深い結びつきは、日本では大事な文化だと思う。

しかし、その親子関係は、親も子も、この世にかけがえのない唯一無二の存在だという思い込みを作り易いと思う。

確かに、物理的にはそうだ。血のつながりでは唯一無二だ。しかし信仰のようにそれに頼りきってしまうと、深い苦しみを味わう。完璧な親も、完璧な子もない。

親が「親らしく」なければ子はがっかりし、子が「子らしく」なければ親は落胆する。

親は逃げ場のない「親らしさ」を基準に生き、子は「子どもらしく」を成人後も忠実に生きようとする。

いづれ、死がお互いを分つと、残るのは空虚感だ。

核家族化が、この傾向を先鋭化させてしまっているように思う。閉ざされた家の中で、親は子を、子は親を、見つめ続ける。ほかに誰もいない。ほかに本当に頼れる存在はないと、お互い知らぬ間に信じ込んでしまう。

かつては多くの場合、大家族だった。ご近所も家族同然の付き合いだった。そんな時代、「親がわり」や「子のかわり」は当たり前に存在した。

血がつながっていないからこそ、「実の親以上」に、「実の子以上」に、愛を育み、人生に納得して生きた例は無数にあるだろう。

親だけをあてにしない。子だけに執着しない。たくさんの人と常に関わることで、人は人生のバランスが取れるように思う。

かつてわたしは「外でお年寄りを見かけると、自分のおふくろ、自分のおやじだと思って・・・」という言葉を信じなかった。世界におふくろは一人、世界におやじは一人と硬く信じていた。

わたしも親子の結びつきを唯一無二と無意識に受け入れ、精一杯生きて来たのだと思う。自宅での介護は全てに優先して取り組んだ。迷いはなかった。

ところが、いざ親をひとり亡くしてみると、核家族の中でずっと内向きにしか発揮できなかった愛情が、外に向かって、街ゆく人にさえ湧くようになって驚いた。かたくなに親にのみ注いでいた思いが解放されて、胸からあふれた。心がこれまでよりも温かくなっていた。

かつては「共同体感覚」なんて、綺麗事だと思っていた。しかし、今ではそれが、これからの孤独の時代に必要な、考え方の工夫であるように思えて来た。

「共同体感覚」は、核家族の中の秘められた親子の間だけに厳しく制限されていた優しさを、隣人に、地域に、解き放つ鍵かも知れない。それは孤独の時代に生きるわたしたちを救う、アイデアのひとつになると思う。

血のつながりだけでは、これからの時代は越えて行けない気がする。

今そばにいる人に、もっと心を開きたい。もっと優しさや、いたわりをもって接したい。

 

平史樹

追記

明治天皇の御製を思い出したので、ここに謹んで記す。

よもの海 みなはらからと 思ふ世に など波風の たちさわぐらむ

「みなはらから」というのを、観念や理屈ではなく、リアルに実際の感覚や境地として持てたら、戦争などすぐになくなるだろう。「みなはらから」の感覚を、日常の中で磨いて行きたい。

 

 

 

 

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